久し振りに九州の柳川の実家に戻ってきた。
今回も日帰りである。その実家は誰も住まなくなって久しい。風もなくおだやかな日和であったが寒気は厳しかった。庭の梅はちらほらと白い花が咲いている。桜の木は小さな芽をつけている。
昨年の今頃、寒風の中でこの桜をみつめたことを思い出した。「冬の厳しい寒さに耐えてこそ春の桜だな」と自分の姿に重ねてみたものであった。あれから丁度一年である。
さて、国会である。
またまた「政治とカネ」の問題でゆれている。残念なことだし私としても皆さんにお詫びしなければならないと思う。
その一方でこの問題をはじめ現在うねりの様におきている政治的な動きを冷静に見つめてみると、政権交代とは何なのかが見えてくる様に思う。戦後はじめての「選挙による政権交代」は単に政権政党が自民党から民主党へ交代したということだけではないと思う。国の主人公の交代である。その意味からも政権交代というより「革命」という表現が相応しいように思う。明治以降一貫して我国の政治の主人公、主役は官僚であった。現在もそうである。決して国民ではない!例えば都道府県や市町村といったすべての地方自治体も補助金を確保するために常に霞ヶ関の官僚に頭を下げるという陳情の実態。そして、その為に多くの自治体が東京に東京事務所をおき、そこに専任の職員を配置している。いや、そうせざるを得ないように霞ヶ関が地方を見事に支配しているのである。陳情は現代の参勤交代である。
また、世界に類のない官僚の天下り構造ががっちりと日本社会に根を下ろしている。いかに国民が官僚に支配され続けているか、ひどいものである!人を逮捕したり起訴したりする権限をはじめ膨大な許認可権限などすべてこの官僚に与えられている。その権限が国民の為にだけ使われるなら問題はない。しかし、今やその権限の多くが「官僚の官僚による官僚のため」に使われているのが実態である。
国民は官僚を選ぶことはできない。
国民が選ぶことができるのは政治家である。例えば衆議院議員であれば少なくとも4年に一回は国民の皆さんから裁きを受けるのである。私も5年前の選挙では国民の皆さんの裁きを受けて落選をした。即ち、国民の判断によって国政から排除されたのである。しかし、官僚は国家公務員であり、仮にどんな失敗、間違いをしても国民から排除されることはありえない。だからこそ、民主主義の基本である国民主権、国の主人公は国民であるという政治、即ち、政治主導の政治を確立することが何より重要なのであると思う。
今、私はこの国の主人公の交代の実現こそ民主党の歴史的使命だと痛感している。官僚をはじめとした既得権の勢力が簡単に権限や権力を手放すはずはない。国民主権の政治の確立への戦いはこれからである。まなじりを決して、覚悟をもってその歴史的使命をはたしていきたい。