去る4月17日、財団法人味の素食の文化センター設立20周年記念の祝賀会が開催された。
私も長年、この財団の評議員を務めていることから祝賀会に出席した。
この祝賀会の記念講演がとても興味深かった。
演題は「今、歴史に学ぶ種子札の発見と古代の稲作」で講師は国立歴史民族博物館、平川南教授であった。
驚いたことに古代の9~10世紀にかけて何と20種類以上の稲の品種が我国で存在していたことである。
講師の平川先生自身が山形県上高田遺跡発掘で発見した木簡の札が最初だという。
その木簡はタテ13cmヨコ3cm厚さ5mmのもので、そこに畔越(あぜこし)という字が書かれていた。
発見当時はこの木簡が何なのか全く不明であったという。
その後、平川先生がたまたま目にした近世の農業書「清良記-新民鑑月集」(1702~1731年成立)の書の中に稲の種子としての畔越という記述を発見し、この木簡が稲の種子札であることをつきとめたのだという。
この畔越という意味は稲が畔をこす位豊作になることを願ったものであろうと思われる。
その後、福島、滋賀、大阪、福岡、石川、奈良など各県の9~10世紀ころの遺跡から次々と種子札が発見された。
その種子札は足張(すくはり)、長非子(ながひこ)、酒流女(するめ)、小須涙女(こするめ)、自和世(しろわせ)などなどである。
しかもこの畔越などの系統は現在まで続いているのだという。
では何故この時代にこんなに品種改良が行われたのか。
それはおそらく気候の影響だろうと推測されている。
即ち、この時代は富士山の噴火だけでも800年、802年、864年と3回、又806年の磐梯山の噴火で猪苗代湖が誕生したり、838年伊豆大島の噴火、865年阿蘇山噴火と続き地震も827年、830年出羽国、841年信濃、850年出羽国、869年陸奥国、879年関東、887年諸国で大地震頻発などである。
その他874年の京都大風雨などとにかく天災、そして今でいう異常気象が続いたようである。
こうした天災を乗り越えようと種の品種改良が行われたと思われる。
新しい品種が科学的技法で続々と生まれる現代から遡ること1000年以上も昔、当時の日本人の智恵とたくましさに恐れ入った。
講演の後の懇親会でのご飯の味は、一層おいしく感じられた。