3月11日の大地震発生以来、毎日その対応に全力で取り組んでいる。
3月中旬頃、避難生活が続く中で特に不足して困っている約20品目のリストが公表された。そこで、そのリストを基に私の支援者や友人、知人宛てにその不足物資の支援の要請をお願いした。
とにかくすごい量の物資が集まった。私の事務所は皆さんからの善意の物資で一杯となった。
そこで2回にわけて被災地に届けることにした。
第一陣は4月17日(日)相馬市の避難所3ヶ所に届けることにした。事務所の全員でトラック1台にびっしり支援物資を積み込み、朝4時に出発した。
8時30分に福島飯坂インターで地元の石原衆議院議員とおち合う。石原さんの案内で相馬市へ向かう。10時前に市役所に到着。まず立谷市長と約40分間面談。震災直後から不眠不休で陣頭指揮で頑張っている市長の言葉には一つひとつに思いがこもっている。続いて波多野市議会議長、地元双葉漁業協同組合の南部組合長、相馬市社会福祉協議会の只野会長らと面談した。次いで3ヶ所の避難所を訪問して支援物資を届けた。集まった支援物資と果物を加えておいた。最初の避難所ではちょうど昼食時間に間に合ったのでさっそく届けたばかりの果物が全員に配られ喜んで頂いた。各避難所では少しずつ皆さんと懇談もした。
特に最後に訪れた所では代表して約10人の方々と約40分位懇談をした。
「こうして自分達の意見や思いを直接聞いてくれた人は政治家ではあなたが初めてだ」
と言って皆さんヤオを切ったようにしゃべりはじめた。
「私は家も生活の基本の船も失った。でもやっぱり漁業で生きていきたい。しかしあの津波の恐怖の為か時々、記憶がよみがえる時がある。これでこれから生きていけるのか本当に不安だ。」
「大津波がくるゾ!すぐ避難しろ!という警告が出された瞬間私にとっては命と同じ大事な借金して造った船を守ろうと港に走った。船と共に海へ出た。しかし、その津波のすごさは命を失うかもしれないという不安よりすごい恐怖心であった。多くの仲間が海の中に消えた。奇跡的に助かったが、だからこそこれからも漁業をやりたい、何とか再開できる様に何としても援助して欲しい。」
訴えを聞きながら胸が熱くなった。
「漁業を引続きやりたい。しかし、原発の風評被害で福島の魚は市場で売ってくれない。東電や原発の専門家は今回の事故は想定外という言葉をよく使う。しかし、我々のこの風評被害こそ、本物の想定外だ」
と声をあらげた。
「全くその通りだな」とつくづく思った。
何としてもこの方々に将来の希望の光が見えるようにしなければならないと決意を固くした。
その後被災地区を視察した。
「ここは住宅が密集していた所です。」という一帯は一面がれきの山である。
「うーん」とただうなるだけで言葉がでない。
夕暮れ、家々には明りが少ない。この時代に生きる政治家としての責任の重大さと使命の大きさをかみしめながら帰路についた。帰宅は深夜12時であった。
※左から「相馬市長と会談」・「避難所へ支援物資を運ぶ」・「被災地区にて」